町と通り

両側町[りょうがわちょう]とは、通りをはさんだ両側を単位とする町組。
応仁の乱(1467年)前後(室町時代)に成立したとされ、自治・自警の組織であり、
自治の内容は変わっても、現代の町内会に引き継がれている。
南北の通りの両側の町を縦町、東西の通りの両側を横町とも言ったようである
両側町の町名は「ちょう」と読みます


街路がの入り口には、木戸門があり、
夜になると閉ざされていたそうで、門番もいたとか。
木戸門は、釘抜、あるいは針抜と呼ばれていた

東西の通りの角の家の敷地は隣の家の半分ぐらいの面積しかない、細長い敷地です
これは、門番の家だったからのようです

木戸門の会所のそばに結髪床が営まれたため、角に床屋が多くあります

両側町の境で道路の幅が変わっているところや、クランクのようなところがあります
平安京の街路には、幅8丈(約24m)以上の大路と幅4丈(約12m)の小路とがありました
現在は、狭いところで道幅5m程度です
それぞれの両側町が通りにせり出して、道幅が変わったています

 



ついでに、四条通りの北側がなぜ下京区なのか
これは四条通りをはさんだ町(両側町だからです)があったからです(中京区でもよかったのでは?)



祇園祭は、町単位で行いますので、非常に狭い町が主体となります

町の面積は小さく、このため、祇園祭の裏方は大変です
特に、最近は民家が少なく、マンション(参加意識が小さい)が多くなっています
企業も多くなっていますが、銀行の場合は大勢の人が応援に出ます


天正年間に豊臣秀吉によって行なわれた天正地割で、
南北方向の通りの中間に新たに通りを作った
四条烏丸あたりは、除かれたため、中間の南北の通りがない

町と町が日常的に結びついていた、それが町組
町組がゆるやかにまとまったのが惣町


天使突抜
上京ー下京間の新たな通りを作ったが(仏光寺ー七条 東中筋通り)
ここには五条天神社があったが、神社を突き抜けて通りを作った
五条天神社は当初「天使の宮」、「天使社」と称していたとか。 

この五条天神の境内を突き抜けて通りが造られたために町の名前が天使突抜となりました
 

五条天神社は昔は五条通りまで広がる大きな神社だったそうです

突抜町という町名は京都にたくさんあります
中京区越後突抜町、京都府京都市中京区突抜町(衣棚通)京都府京都市中京区突抜町(釜座通)、
上京区真如堂突抜町・・・



地図はMapionを使っています

正面通り
秀吉が作った方広寺の大仏の正面に向かって
専用の参詣道と参詣橋を作った
この参詣道を正面通りと言い付近一帯を正面町と言うようになった



路地(ろうじ)と辻子・図子(ずし)は違うもので、
通り抜けられる道のことを図子といいます。辻子も書きます
行き止まりの道のことを路地といいます。露地とも書き、「ろうじ」と伸ばして呼ばれます

 路地の入り口には、建物が張り出していたり、 複数の表札が上がっていたりします

 鉄輪(かなわ)の井は通りに門があり、複数の表札がかかっています、奥に井戸があり、神さんが祭ってあります

 鉄輪の井:妖怪スポットとして有名
貴船神社に丑の刻参りをしていた女が、男に相談を受けた安倍清明に呪詛返しをされ家の-近くの井戸で息絶えたが、
その後女が様々な祟りをなすので、かぶっていた金輪を井戸の-傍らに埋めて塚を築いて稲荷を祭った。
この井戸の水を別れたい相手に飲ますとたちどころに縁切りができるという伝説がある。


変わった名前の町と通り

悪王子町は五条烏丸北にあるのですが、町名表示が見つかりません
元悪王子町は東洞院、四条と綾小路通りの間です
悪王子は勇猛化果敢な、荒、荒魂の意味です

悪王神社は、八坂神社の摂末社です、東洞院通、四条下るに小さな祠がある

「悪」というと善悪の「悪」という意味が一般的ですが、
かつては「力強い」という意味でも用いられていたそうなのです
そして「悪王子」とは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の荒魂(神の持つ温和な面と強大な面のうち強大な面のこと)のことを意味しています。

元悪王子町
東洞院通、四条下るにある
小さな祠がある

轆轤町
このあたりは一面人骨が転がっていた。
死体を鳥部野まで運ぶのが面倒で鴨川に捨てていた時代、
昔の川というのはよく洪水が起こっていた。
洪水の後は鴨川の死骸が河原一面に散らばってしまうのだ。
それを鳥部野、鴨川の境のこの六道の辻という
当時あの世この世の境目と言われていた所に、
死体をかき集めたり、死体を捨てていく人が後を絶たなかった。
そういう事もあり、ここら一体には人骨が無数に放置されていたということから
髑髏町と呼ばれていたそうです
 東轆轤町、中轆轤町、西轆轤町があるようです




方広寺 大仏関連の施設・町名
馬町あたりはりは正式には、「大仏馬町伏見街道東入五丁目常盤町」といいます
方広寺の大仏殿跡は緑地公園となっています
大仏殿の石垣は素晴らしいものです。七条通り角に、大仏前交番
三十三間堂南門は正式には大仏南門、この前の通りは塩小路通り(旧大仏南門通)
関西電力大仏変電所(大仏南門通大和大路東入本瓦町)が近くにあり
正面通(方広寺大仏の正面の道)の伏見街道に大仏前郵便局
正面通を西の正面橋、ここには昔、京阪電車の大仏前駅


夕顔町

下京区堺町通高辻下ルに「夕顔町」というところがあり、
ある一軒の お家の前に 木の柵がして あり、
その中に「源語伝説 五條邊 夕顔之墳」と彫ら れた石柱が建っています
源氏物語の「夕顔」に登場する女性で、
五条の家(石碑の立つ地が想定地)に住んでいたとされている
その後、急死したそうです

銀座と金座
伏見銀座は江戸時代のはじめ、徳川家康によってはじめて銀座がおかれたところである
銀座とは、鋳を加工して一定の品位をもつ丁銀、小玉銀などの銀貨とする独占鋳造所のことで、
特権商人によって構成される。
関ヶ原の戦が終った翌慶長6年、家康は後藤庄右衛門、末吉勘兵衛に銀座取立を命じ、
この地に四町の屋敷を与えた。
有力庄人の座人が集められ、早くから銀鋳造は特殊技術をもつ大黒常是(だいこくじょうぜ)が鋳造を担当し、
銀座会所、座人屋敷が立ちならんだ。これが、江戸時代銀座のはじまりである

銀座とは、鋳を加工して一定の品位をもつ丁銀、小玉銀などの銀貨とする独占鋳造所のこと
後に、銀座は京都中京の両替町へ移され、伏見銀座は廃止された
豊臣秀吉による天正の地割で新設された通りで、
押小路通との交差点付近に徳川家康によって金座が設けられ
1608年(慶長13年)には銀座が伏見から金座の南に移転した



長い町名(30文字)
京都府京都市東山区三条通南二筋目白川筋西入ル二丁目北木之元町
 


他にも32文字があるそうです
京都府京都市東山区三条通南裏二筋目白川筋西入二丁目南側南木之元町
京都府京都市上京区今出川通烏丸東入上る二筋目東入下る相国寺門前町
京都府京都市東山区三条通南裏二筋目白川筋西入二丁目北側北木之元町
京都府京都市上京区寺町通今出川上る一丁目西入三筋目上る上塔之段町
旧跡名の交番・郵便局
大仏前郵便局・羅城門郵便局・聚楽郵便局・大仏前交番・二条殿交番


米浜郵便局
大坂からの荷物が京都に運ばれ、荷揚げの場として内浜、米浜、富浜などがあった。
当時の名残で通りや町名に富浜町や材木町などがあり、「米浜」という名前は郵便局名として残った

変な路地(訳が分からん) 6
道幅6mぐらいの道が4つの所有者で分かれている


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